名称の由来には二つの説がある。
もう一つは良价の法を嗣いだ本寂(840~901)が活躍したのが撫州(江西省臨川県)の曹山であったことから、洞山と曹山を合わせて曹洞としたという説である。(曹洞宗大辞典より)
日本へは、道元禅師(永平寺開祖)が、はるばる中国に渡り、如浄禅師のもとで修行をし、その法を日本へ伝えたものである。
道元禅師は、西暦1200年、土御門天皇の父親、内大臣久我通親公を父に、摂政藤原基房公の娘を母として、京都に生まれ、幼名を文殊丸と言う。
三才で父を失い、八才で母の死に逢い、世の無常を感じて13才の春、比叡山座主・公円僧正について得度。
後に、建仁寺を尋ね、栄西の高弟・明全和尚に師事する。24才の時、明全和尚と共に、入宋(現在の中国)。諸方の叢林に遍参された。
宝慶元年(西暦1225)天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を重んずるもので、道元禅師はその厳しい修行を修めた。
如浄禅師の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。安貞元年(1227)、28才の時で、一時建仁寺に掛錫し次いで深草に閑居された。
なお、一緒に渡宋した明全和尚は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
天福元年(1233)春、京都・山城に、興聖寺を開き、住すること10年。
44歳の時、波多野義重に請われて越前(福井県)志比庄に向かい、翌寛元2年 (1244)に大仏寺を興し、翌々年に永平寺と改める。
建長4年(1252)夏、健康がおもわしくなく、翌年に、後事を法嗣・孤雲懐弊禅師に譲り、京都で示寂。世寿五十四歳。
道元禅師の仏法を広く世に広めたのが、4代目の螢山禅師(総持寺の開祖)である。
道元禅師が、宋の天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)から受け継いだ禅風は、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を重んずるもので、永平寺はその仏道修行の根本道場であると言う伝統を、約750余年に渡って今日まで守り、またそれを誇りとして来ている。従って、今日でも、常に、200余名の修行僧が、日夜昔と変わることにない厳しい修行に励んでいる。
永平寺の境内は約10万坪(33万平米)。樹齢約700年といわれる老杉の林立する中に回廊で結ばれた七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいる。
深い精神性が感じられる厳粛な自然の中にある永平寺は、四季折々、参詣客が絶えることはない。見学に訪れると、雲水が法話をまじえながら七堂伽藍などを案内してくれ、客膳料理として本膳,二の膳の精進料理も食することが出来る。
また、雲水の修業に近い生活を送る参篭・参禅や研修も、事前に申し込むことによって可能である。
〒910-1228 福井県吉田郡永平寺町志比 TEL:0776-63-3102
(古来禅門では昼を過ぎると食事を取らないことになっており、石を温めて空腹をおさえたことから薬石と言う)。
この能登の地に於いて570余年の着実な歩みを続けて来たが、明治31年(1898)4月13日夜、本堂の一部より出火。フェー
ン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまった。
明治38年5月、時の本山貫主・石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命に鑑み、大決断をもって明治40年3月、寺基を現在の地に移した。
現在の總持寺は、横浜市の郊外、鶴見が丘にある。JR鶴見駅より徒歩わずか5分という交通の便の良さに加え、わが国の海の玄関・横浜に位置するところから、国際的な禅の根本道場として、8万坪の寺域を有する偉容を誇ってる。開かれた道場として地の利をいかし、日々、社員研修や参禅会等が行われている。
さらに、教育に力を注がれた禅師の意思を受け継ぎ、幼稚園から大学まで総持学園を運営している。
總持寺は、開かれた禅苑を目指しているので、境内は自由に参拝できる。
また、広い寺領の中の数多い諸堂内も修行僧の案内で拝観できる。
〒23>0-0063 神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-1 TEL:045-581-6021