歴 史 2

道元禅師、永平寺を開く

道元禅師像

日本の仏教の歴史には時代の変革に伴う幾つかの転換点があるが、中でも鎌倉仏教の興隆は大きな出来事だった。造寺、造仏ではなく、真に仏を信じさえすれば必ず救われるという仏教思想を基に生まれた新たな宗派は、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、日蓮宗(日蓮)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)である。
禅宗のうち栄西が開いた臨済宗は、貴族や鎌倉幕府の武士の帰依を受けた。道元はひたすら坐禅に徹せよと説き、曹洞宗を広め、武士だけでなく庶民の間にも浸透していった。

道元禅師は正治2年(1200)内大臣久我通親を父に京に生まれた。比叡山で受戒し、貞応2年(1223)に南宋に渡った。浙江省にある天童寺の如浄禅師の弟子になり、曹洞宗の教義の精髄を受けた。帰国した道元はひたすら坐禅に徹せよと説き、曹洞禅の普及に乗り出した。
仏道修行の心得を「弁道話」に著すとともに、生涯にわたる説示である「正法眼蔵」の著述を開始し、嘉禎2年(1236)、洛外の山城深草に興聖寺を開いた。本格的な禅道場である。これに孤雲懐奘(こうんえじょう)ら民間禅宗系の達磨宗の僧が加わり、初期道元教団を形成した。
しかし、曹洞宗の勢力拡大は比叡山など旧仏教の反発を招いたため、44歳の時、越前に移り、寛元2年(1243)、大仏寺(2年後に永平寺に改称)を開いた。道元は永平寺でひたすら禅の修行と、弟子たちの養成に努めた。重い病をわずらったことから貫主を懐奘に譲り、建長5年(1253)、病気療養のため京都・西洞院の弟子の屋敷に移ったが、同年8月没した。54歳だった。

曹洞宗のもう一つの総本山、総持寺は瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師が能登にあった寺を曹洞宗に改めたもので、明治時代に横浜市鶴見区に移転している。

 

駿河、遠江で禅宗拡大
禅宗が静岡県下に広まっていったのは室町時代以降、特に農民の間に浸透していったのは応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱以降である。ただ同じ禅宗でも曹洞宗と臨済宗では、布教のベクトルに違いがあるとされている。小和田哲男静岡大名誉教授は「開祖の道元と栄西の教えの受け入れ方に違いがあったことに加え、曹洞宗は中央権力者との接近を避け、地方武士を外護者として発展したのに対し、臨済宗は常に中央を志向し、幕府の権力者と結びつくことによって教線を伸ばした」(「静岡県の歴史・中世編」)と解説している。

臨済宗が幕府権力や上級武士の保護を受けたのに対し、曹洞宗は農村や地方武士に浸透したため、「臨済将軍・曹洞土民」と呼ばれた。農民・庶民と積極的に交わっていた曹洞宗は、農村の構造変化を背景に着実に広まっていった。曹洞宗の禅僧には、農耕は禅の修行であるとして、自ら農耕に従事する者も現れた。

駿河、遠江の最古の曹洞宗の寺は島田市の天徳寺といわれる。大分県の僧、大通融士が1390年(明徳元年)、天台宗だった智満寺(島田市)を曹洞宗に改め創建した。当初は深泉寺といわれ、後に天徳寺に改められた。山門は静岡県指定文化財になっている。天竜川以東では如仲天誾が応永18年(1411)に周智郡森町に大洞院を開き、末寺は3000を超えたという。駿河における大洞院の末寺には洞慶院(静岡市葵区羽鳥)、増善寺(同区慈悲尾)智満寺(島田市)などがある。また大洞院は「森の石松」の墓があることで知られている。

臨済宗も遠州地方から広まった。南北朝時代に後醍醐天皇の皇子といわれる無文玄選が応安4年(1371)、方広寺(浜松市北区引佐町)を開き、天竜川以西の県内に158の末寺を持った。その後、駿河、伊豆にも広まった。静岡県内の寺院数で禅宗が圧倒的多数を占め、臨済宗が曹洞宗に次いで多いのは、守護、戦国大名として駿河、遠江に君臨した今川氏の禅宗保護政策という背景があった。足利氏につながり、常に都の中央権力を意識していた名門の今川氏が臨済宗に帰依するのは必然的な流れだった。

今川歴代当主の菩提寺の宗派をみても、臨済寺を代表格に臨済宗が圧倒的に多い。初代範国、3代泰範、4代範政、5代範忠、6代義忠、8代氏輝、9代義元はいずれも臨済宗の寺院である。それ以外は2代範氏が真言宗慶寿寺、7代氏親が曹洞宗増善寺、10代氏真が曹洞宗観泉寺(東京都杉並区)である。ちなみに7代氏親の正室の寿桂尼(中御門宣胤の息女)は氏親の死後、8代の長男氏輝が成長するまで政務を執り、「女戦国大名」と呼ばれた。寿桂尼と氏輝の菩提寺は静岡市葵区沓谷にある臨済宗の龍雲寺である。初代範国の墓の所在地は定かではないが、磐田市の福王寺(曹洞宗)に範国の墓と伝えられる墓碑がある。

臨済寺 葵区大岩町にある臨済宗妙心寺派の禅寺で、山号は大龍山。今川義元の父氏親が太原雪斎を招き建立した善得院がその前身。1536年、義元が大休宗休を開山として、臨済寺と改めて開いた。本堂は国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定されている。徳川家康が幼少時代、人質として預けられていたことでも知られる。

瑞龍寺の寺宝

徳川家康は、駿府に移った慶長12年(1607)から駿府城で死去する元和2年(1616)まで9年間、駿府で大御所政治を行った。この間、旭姫の菩提を弔うため時々、瑞龍寺に参詣したと伝えられる。そのもてなしのため瑞龍寺の客殿の襖に徳川家の葵の紋と豊臣家の桐の紋章が描かれていたといわれる。

当時の建物の規模は茅葺の壮大なものであった。寺領は約2町(218メートル)四方、本堂間口10間半(19メートル)奥行8間(14.5メートル)、庫裡間口7間半(13.6メートル)、奥行6間(10.9メートル)。そのほか僧堂5間四方、方丈4間四方、鐘楼9尺四方、地蔵堂間口2間、奥行3間、鎮守社間口9尺、奥行2間半などが建てられていた。地蔵堂は序像菩薩を本尊として元禄4年(1691)3月、碩岑見随大和尚が建立した。

駿河志料などによると、慶長9年(1604)、5世・尭山梵舜大和尚(長源院9世)が中興した。また承應2年(1653)、7世・崋山見榮大和尚が再び中興、寛永14年(1637)、楚龍和尚が本堂を再建した。

徳川家康はじめ歴代の徳川将軍が瑞龍寺に16石の領地安堵(あんど)朱印状を発給しており、その写しが寺宝として残っている。領地安堵朱印状は、将軍が公家、武家、寺社に対し、所領の所有権を公認するために発給した公的文書で、徳川家は瑞龍寺に代替わりごとに与えている。家康の「瑞龍院寄附状」(朱印状)の内容はおおむね次の通りである。

「瑞龍院寄附状。駿河国安倍郡井宮にある瑞龍寺の十六石の領地は、すべて寺へ収納せよ。山林の竹木は伐採してはならず、諸役は免除する。仏事、勤行を怠りなくするように。慶長七年十二月九日 内大臣」

 

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豊臣秀吉、徳川歴代将軍の朱印状のほか、瑞龍寺には歴史的に貴重な秀吉、家康ゆかりの寺宝が現存しており、大切に保管されている。

秀吉が北条攻めの先陣で用いたといわれる桐文蒔絵膳椀(きりもんまきえぜんわん)は、小田原からの帰途、駿府に立ち寄った際に朱印状とともに瑞龍寺に寄進された。
家康は旭姫の遺品として桐沢潟立湧模様小袖内敷(きりおもだかもんたてわくもよううちしき)を瑞龍寺に収めた。(瑞龍寺の書画等一覧は末尾「史料」参照)
家康はまた旭姫が没した天正18年(1590)、旭姫が葬られた南明院に所蔵されていた吉山明兆(きっさんみんちょう)作の「釈迦三尊像」1幅と「十六羅漢絵像」2幅を寄進した。

蝶足桐文蒔絵膳椀
桃山時代の優れた工芸品。秀吉が小田原の北条氏攻めの際に用いたといわれる蝶足膳(ちょうあしぜん)で、胴と足に計20の桐紋が蒔絵で施されている。桐紋の意匠など桃山時代の特徴を備える高級品。秀吉が小田原攻めを終えて帰陣する途中、瑞龍寺に自分の膳椀を納めたものという。椀は戦災で焼失した。

蝶足桐文蒔絵膳椀

桐沢潟立湧模様小袖打敷
立涌模様に桐紋、沢潟紋を刺しゅうした旭姫の所用の小袖で、桃山時代の豪華な衣装。後に打ち敷に作り替えられた。打ち敷は仏壇に飾る荘厳具の一種。表は極楽浄土の様子を表すためきらびやかな金襴で織られ、裏側は白無地になっている。

桐沢潟立湧模様小袖内敷

吉山明兆 
南明院2世。北宋の李竜眠から画法を学んだ漢画創世記における代表的画僧で日本画の祖といわれる。東福寺で初の寺院専属画僧となり、足利義持の庇護を受けた。「五百羅漢図」「大涅槃図」などの作品があり、東福寺に多くの仏画、頂相(禅僧の肖像画、肖像彫刻)を残した。

 

吉山明兆作 仏画
キリシタン灯篭の謎
キリシタン灯篭

戦前、瑞龍寺の前庭に池があり、戦災後に整地した際、本堂の手前右側にキリシタン灯篭と呼ばれる灯篭が発見された。キリシタン灯篭は、江戸時代に幕府のキリスト教弾圧策に対して、改宗せず信仰を維持した潜伏(隠れ)キリシタンがひそかに礼拝したものとの説があるが、茶庭のつくばい(蹲踞)石の鉢明かりとして使用された織部灯篭との見方が一般的である。少なくとも灯篭が崇拝の対象になった記録はない。

瑞龍寺のキリシタン灯篭は、四角柱の竿石上部が十字架のようになっており、石像が刻まれている。キリシタン灯篭は全国に百数十基あるといわれ、静岡市内(葵区)には瑞龍寺の1基のほか、宝泰寺に2基、宝台院(常磐町)、浮月楼(紺屋町)、志貴家(浅間町)、斎藤薬局(幸町)に各1基の計7基がある。

郷土史家の黒澤脩によると、キリシタン灯篭という呼称を最初に用いたのは、静岡市の郷土史家法月俊郎である。もともとは「駿国雑誌」の記述にある「石燈籠麗験」という話が発端という。内容は概ね次のようなものである。

「有渡郡府中札の辻奉行屋敷に石燈籠があった。地蔵の形をしており、丈は6尺である。駿府城内の紅葉山にあったが、最近、預かりのため屋敷に移した。常に香花を供えており、茶も備わっている。病気の者はこの茶を飲めば直ちに治癒する。人がもし誤って燈籠に手を触れると、必ず病気や災難が降りかかる。言い伝えは恐ろしいものだ」
この石灯篭がキリシタン灯篭であり、「徳川家康と駿府城下町」は、謎めいた言い伝えについて考証を始めたことが事の起こりとしている。

織部灯篭 
茶人の千利休の弟子、古田織部が天正年間に考案したつくばいの鉢明かりとして使う四角形の火袋を持つ活込み型の灯篭。竿の円部に記号を陰刻し、その下部に立像を浮き彫りにしている。竿にかんぬきなどを入れると、十字架のようになることから、これを地蔵信仰に似せた隠れキリシタンの尊像とみて、キリシタン灯篭ともいわれた。

松尾芭蕉と時雨塚
芭蕉のの時雨塚

瑞龍寺の山門を入ると左側に、松尾芭蕉ゆかりの時雨塚の句碑がある。創建460年事業の一つとして、時雨塚の句碑を新たに建立したもので、松尾芭蕉の命日(新暦)に当たる平成2年(2020)11月28日、句碑の除幕式が行われた。古い時雨塚は新句碑と並んで残されている。時雨塚は瑞龍寺の寺宝である。

静岡県における俳諧の普及は、芭蕉一門の雪中庵(雪門)の地方進出だった。中心人物は雪中庵3世の大島蓼太で、しばしば駿府を訪れて普及に努めた。駿府の俳諧結社、時雨窓の初代に山村月巣を推挙したのも蓼太である。

宝暦6年(1756)ごろに造られたとみられる瑞龍寺の時雨塚は、新句碑建立までは細長い山本宗李の句碑と並んで東向きに立っていた。直径1尺7寸、高さ2尺の丸い石で、その周囲は石の玉垣で囲われている。碑は長年風雨にさらされていたため、石の表面は全く風化されており、文字は判読しがたいが、駿河志料などから「元禄七年十月十二日 志ぐ連塚 芭蕉桃青居士」と彫ってあったと推測されている。

駿河志料の内容の大意は次のようなものである。
時雨塚がもともと安東村(葵区安東町)にあった臨済宗の長安寺に建てられたことが分かる。
「時雨塚は長安寺の境内にある。誰が建てたか由来は分からない。竜爪山を別名、時雨峰という。駿府の俳人の庵を時雨窓と名付けたのは、長安寺の庭からも庵の庭からも竜爪山を望めるためと伝えられる。時雨塚は丸い石を置いてあり、正面に時雨塚、左に芭蕉桃青居士、右に元禄七年十月十二日と記してある」
さらに句碑には
「けふばかり人も年よれはつしぐれ」
という芭蕉の句が刻まれていたと推測されており、新たに造られた句碑にも「けふばかり」の句が刻まれた。句の意味は「初時雨が降ったきょうばかりは、皆も老いの境地になって時雨の寂しさを味わってくれ」である。
宗李は天保2年(1818)、本通川越町に生まれた。俳諧、茶道、挿花(生け花)に優れ、華道家として歓寿宗李と号し、石州山本流の創始者となった。大正7年に死去、瑞龍寺に葬られた。句碑は今でも瑞龍寺の山門を入った左側、時雨塚の横に立っている。

青渓が長安寺から移転 
長安寺は明治初期に廃寺となったため、明治12、13年ごろ、瑞龍寺の檀徒である材木町の大村青渓、安東村長伊藤忠左衛門らが、碑を瑞龍寺境内に移した。本来なら長安寺の本寺である宝泰寺(葵区伝馬町)に移されるべきであるが、曹洞宗の瑞龍寺に移されたのは、檀徒であり俳人でもあった大村青渓の意向があったとみられる。

青渓も雪中庵6世の山口椎陰について俳句を学んだ雪門・時雨窓の俳人である。しかし、時雨窓と雪中庵の対立を契機に独立して観峰吟社を立ち上げ、観峰居青渓と号した。俳号の観峰居は材木町の書斎から賎機山が見えたことによるという。中秋の名月の夜などは門人を引き連れて、しばしば清水の龍華寺や三保の松原などで句会を催した。

青渓は明治24年(二百回忌は明治26年)(1893)4月、浅間神社で芭蕉の200回忌を挙行、200人以上の門人らが参加した。また芭蕉の命日に当たる旧暦10月12」日には瑞龍寺で時雨塚再建供養を行った。青渓は200回忌に際して次の文(大意)を寄せた。

「芭蕉翁の俳諧は年々興隆し、ここに200年の年月の経過を迎えたので。句集を出して芭蕉の恩に報おうと門人らに告げる。私もその思いが深いので、ここに句を集めて評を行う。諸氏門人の志が関わっているからである。芭蕉翁も『先ずたのむ椎の木もあり』と詠まれたことに思いを合わせて、木陰に休み、川の流れに思いを汲んで、きょうの句会を催し、諸氏の詠む俳句を芭蕉翁の前に飾る。私も心安らかに合掌九拝する。
『時は卯月、椎のかげりの したはしや 青渓』」

山本宗李と大村青渓以外に瑞龍寺に墓がある江戸末期から大正時代にかけての著名人は次の通り。

柴田泰山(文政元年~明治17年)
庵原郡庵原村(現在の静岡市清水区庵原)出身の江戸時代後期から明治時代初期の画家。京都の画壇で学び、駿府で画家となった。鶴の絵が得意で、瑞龍寺の本寺である長源院に「鶴の襖絵」が残っている。山梨鶴山、神戸麗山とともに庵原三山と評された。

多々良楳庵(梅庵)(嘉永元年~大正元年)
志太郡和田村(現在の焼津市和田)生まれ。医学を駿府病院および大阪府医学校に学び、明治8年、富士郡吉原で開業。引佐病院長、藤枝病院長などを歴任、明治11年静岡市で産科病院を開いた。助産師(産婆)や看護師(看護婦)の養成に尽力した。

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