瑞龍寺が創建された井宮町には、古くから鯨ヶ池を水源とした水が駿府府内に入る水門があり、水の神様を祭る井宮神社の由来ともなっている。また瑞龍寺の北には賤機山に沿って松樹院、松平忠明の墓、井宮神社があり、井宮は史跡が多い歴史地区になっている。さらに北に円成寺、長栄寺などが並び、賤機山の麓に沿って寺院群を形成しており、一帯は静岡市の風致地区に指定されている。
駿府城代の役人、阿部正信が寛永11年(1634)に著した「駿国雑志」は「開山は能屋梵藝大和尚、開基は瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼(旭姫)である。本尊は恵心作の金像観音(聖観世音菩薩)である」と記している。同時代に浅間山の神職、新宮高平が書いた「駿河志料」などは、瑞龍寺の開山時期を永禄8年(1565)としている。
瑞龍寺由緒書
由緒書は寺院、神社や家などの起源、由来、系譜などを記したもので、瑞龍寺には現在も写しと思われる由緒書が保存されており、寺の歴史をたどる上で貴重な史料となっている。
内容は旭姫の墓が瑞龍寺にある経緯や、大御所時代の家康と瑞龍寺の関わり、家康が瑞龍寺に寄進した寺宝のことなどが書かれている。
瑞龍寺と本寺の長源寺との関係は深く、開山から戦国時代、江戸時代初期までの瑞龍寺の住職は長源院から来たか、兼務していた。開山の能屋梵藝大和尚(長源院5世)はじめ、6世までは長源院の住職経験者である。その後も18、19世が長源院から来ている。3世の在川謙昨大和尚(同7世)は掛川城主の山内一豊の伯父で、掛川に招かれ真如寺を開山、治世や城下町づくりに助言を与えた。一豊の土佐移封に伴い高知に同行している。
天正12年(1584)、織田政権の事実上の後継者となった秀吉と家康が対立、小牧・長久手の戦いが起きたが、同年末に和解が成立し、秀吉は名実ともに天下人になった。家康は小牧・長久手の戦いの後、二男秀康を人質として秀吉のもとに送った。これに対し秀吉は家康の帰順を促すため、さらなる講和策として旭姫と家康の婚姻を推進することになる。旭姫はこの時、秀吉の家臣、副田吉成の妻であり、家康に嫁がせるため離別させたと伝えられており、旭姫の婚姻が双方にとって政治的に重要だったことが分かる。
旭姫は天正14年5月、京都を発って浜松城にいる家康に嫁いだ。花嫁の行列は160人余の盛大なものだった。この時、旭姫は44歳、家康45歳だった。旭姫と家康は12月、浜松城から駿府城に居城を移した。家康は上洛し、秀吉に臣下の礼をとった。戦国時代、武将の家に生まれた多くの女性と同様、旭姫の婚姻も政略結婚ではあるが、豊臣、徳川両家を結ぶ「架け橋」の役割を果たした。豊臣家の女性のうち、秀吉の正室ねね(北政所)は旭姫より5歳年下で、豊臣家滅亡後も徳川家から養老料を安堵され、長寿を全うした。秀吉の側室で秀頼の母、淀殿は慶長20年(1615)、大坂夏の陣で大坂城が落城、秀頼とともに自害した。旭姫、北政所、淀殿の豊臣家の女性たちはそれぞれ異なった道を歩んだ。いずれも戦国時代の武将の家を象徴する女性群像だった。
旭姫肖像画
肖像画の作者は不明。描かれた年代は、旭姫が他界した数年内とみられる。東福寺21世・熙春叟龍喜が書いた画賛は旭姫について
「坤儀(こんぎ)は貞淑にして、婦徳は温淳なり。蓬莱(ほうらい)の五色雲を看るに、只だ椿齢を期すも献寿を空しくするを悼む」
とその徳をたたえている。
家康は同年、南明院から分骨して瑞龍寺に旭姫の墓を建てた。旭姫が駿府に住んでいた間、しばしば瑞龍寺に参詣した縁があったためである。法名を「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」とした。家康が瑞龍寺に旭姫の墓を建てた理由の記録は残っていないが、家康の旭姫に対する思いと、旭姫を大切に扱っているという政治的配慮を秀吉に示すためとみられる。ただ秀吉が小田原攻めで駿府に立ち寄った際、旭姫を供養するため墓を建てたとの説もある。
徳川家康、秀忠、家光ら歴代将軍は上洛の際に、旭姫を追悼するため南明院に墓参したと伝えられる。京都・相国寺鹿苑院の執務日記の「鹿苑日録」によると、天正19年(1591)5月3日に、家康を施主とする南明院の仏事があったという記録があり、この仏事が旭姫の1周忌の法要と考えられている。また南明院には旭姫の肖像画が文化財として所蔵されている。駿府にいた家康は旭姫没後に時々、瑞龍寺にも参詣した。
一方、旭姫の墓といわれるのは、瑞龍寺11世住職の碩岑見随大和尚が元禄15年(1702)、墓の淋しさに心を痛め、建立した供養碑との見方もある。静岡県が編さんした「駿河村誌」によると、供養碑の碑文は京都・興聖寺の梅峯竺信が撰した。碑文は、瑞龍寺の創建から説き起こし、旭姫の婚姻の経過と模様、病没して瑞龍寺に分骨されるいきさつや、秀吉、家康の領地安堵朱印状の発給などが記されている。
が、葬られた南明院を塔頭(たっちゅう)とする東福寺(臨済宗東福寺派の大本山)の開山が、駿河国栃沢(静岡市葵区)出身で静岡茶の始祖と伝えられる鎌倉時代中期の高僧、聖一国師であるのも何かの縁であろう。
聖一国師
建仁2年(1202)安倍郡栃沢の米沢氏の家に生まれたと伝えられる。久能山で学んだ後、東福寺に入り、嘉禎元年(1235)に入宋、臨済禅を学び7年後に帰国、教えを広めた。栃沢付近では古くから茶の栽培が行われており、駿河に帰省した際に、京で習得した茶の製法などを広めたため、静岡茶の祖といわれる。
豊臣秀吉は、旭姫が他界した天正18年(1590)春、帰順を拒否した小田原の北条攻めを開始、7月北条氏政、氏直親子が降伏し、秀吉は天下統一を果たした。これを機に秀吉は、徳川家康の所領である三河、遠江、駿河、甲斐、信濃に代えて関東の8カ国を治めるよう家康を移封した。250万石の大大名になった家康を畿内から遠ざけるためで、家康は駿府に戻ることなく江戸に入府した。秀吉は、旧家康領に北条攻めの論功行賞を兼ねて東海道筋に信頼できる家臣を配置した。即ち駿河・中村一氏、遠江・山内一豊、堀尾吉晴、三河・田中吉政である。
北条氏を滅ぼした秀吉は畿内に帰る途中の天正18年8月22日、駿府に立ち寄った際に瑞龍寺に参詣、旭姫を供養した。秀吉はその際、瑞龍寺に8貫文の寺領を寄進した領地安堵の朱印状を発給した。駿府に立ち寄った際の内容が、元文5年(1740)に完成した徳川家康の伝記である「武徳編年集成」に記されている。伝記は幕臣木村高敦が書いた。
「8月22日、秀吉は駿府に到着、新守護の中村式部少輔一氏が饗応した。駿河国安倍郡井宮にある瑞龍寺は秀吉の妹、神君(家康)の正室(旭姫)が生前、参詣した寺である。この春(1月)に逝去したため、秀吉の悲涙は浅くなく、住職に寺領の印章を与え、南明院光室(旭姫)を追悼した」
朱印状には「旭姫の菩提であるので寄付をする」との記述があり、秀吉が瑞龍寺を旭姫の菩提寺として認識していたことが推測できる。朱印状の内容(大意)は次の通りである。
「瑞龍寺の山林の竹木を伐採してはならない。また、寺家と門前の諸役は免除する。寺領の山屋敷八貫文の所は以前のとおり下さるので、すべて寺へ収納せよ。光室総旭の菩提のために寄付するのであるから、寺の勤行を怠りなくするように」
秀吉の朱印状は現存しており、瑞龍寺の寺宝の一つであり、歴史的に貴重な資料となっている。饗応した中村一氏の墓は臨済寺(静岡市葵区大岩町)にある。
家康は慶長10年、将軍職を秀忠に譲り、大御所として君臨、慶長12年駿府城を修築して駿府に移った。家康は入府後も駿府で大御所政治を継続した。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、慶長20年(1615)の大坂夏の陣を経て、豊臣家は滅亡した。
駿府城に入った家康は、仏教各派の名僧を駿府城に集め、仏教の法門について各派に仏教の基本理念をめぐり論争させ、優劣を競わせた。家康自らが聴聞し、僧侶の人材登用にも活用したという。御前論議と呼ばれた僧侶との問答は、駿府に移った翌年の慶長18年(1613)から死去する元和2年(1616)まで続いた。史料には御前論議に瑞龍寺をはじめ駿府周辺の地元の僧侶が出席、瑞龍寺から4世・泰岳是安大和尚(長源院8世)、5世・尭山梵舜大和尚(同9世)が呼ばれて登城したと記録されている。参加した寺は、曹洞宗では瑞龍寺はじめ瑞光寺(葵区安西1丁目)、安養寺(駿河区小坂)などである。
「長源院誌」よると、是安大和尚はしばしば家康に呼ばれて法話し、参禅の師になった。家康から寺領の寄進の申し出を受けたが、辞退したため大和尚への信任はさらに高まり、長源院は駿河国第一の祈願所と定められた。
また瑞龍寺は駿河七ケ寺の一つで、旭姫の墓があることから格式が高かったことがうかがえる。七ケ寺は曹洞宗の瑞龍寺、増善寺(葵区慈悲尾)、臨済宗妙心寺派の誓願寺(駿河区丸子)などである。
御前会議に召集された学僧も駿河七ケ寺も曹洞宗が多い。臨済宗を含めた禅宗系が多いことが、駿河国の宗派分布の特徴で、この傾向は現在でも変わらない。
静岡県宗教法人名簿(令和2年3月31日現在)によると、静岡市の宗派別寺院数は曹洞宗142(37.8%)、臨済宗妙心寺派110(29.3%)、日蓮宗43(11.4%)、浄土宗22(5.9%)、単立12(3.2%)、真言宗醍醐派11(2.9%)で、曹洞宗がトップになっている。
曹洞宗の寺院数は葵区70、駿河区40、清水区32の順に多いが、臨済宗妙心寺派は清水区72、葵区27、駿河区11で、清水区に集中しているのが特徴になっている。
系統別では禅宗系254(67.46%)、日蓮宗系46(12.2%)、浄土宗、真宗大谷派など浄土宗系36(9.7%)、真言宗系15(4.0%)で、曹洞宗、臨済宗の禅宗系が7割強となっており、圧倒的に多いことが分かる。